いつか、その些細な関係に終わりが告げられる時。 それは、彼が自分を置いていく時だと思っていた。 いつだって先を突き進む背中しか、見えなかったから。 (穏やかな時も、そう――、少なかったかもしれない、けれど) じわりじわりと侵食してくるのは、言いようのない不安。 (想いが、深かったから、こそ) 漠然と、膨大に抱く嫉妬は獄寺を苦しくさせて。 無自覚なまま疲れ果てて、ついに走るのをやめて、歩くのをやめて。 ひらいていく距離。 振り向きはしない背中は遠ざかり小さくなって、やがて消えた。 追い縋る気は、もともとなかった。 全てを投げ打つほどの浅慮さも豪胆さも持ち得なかったから。 伏せていた瞼をひらく。 盛大な歓声と拍手の中、純白のドレスに包まれた花嫁が、幸せそうに笑う。 祝福の鐘が鳴り響いた。 女だったなら、と。 きっかけは多分そういうことで、それだけが理由ではなかったが、それが離れた理由の一つというのは確かだった。 女だったなら何の躊躇いもなく結ばれて、寄り添って、ずっとちゃんと繋がっていられた。 女だからといって必ず幸せになるとは限らないと、理性は訴えるけれど、感情は耐えられず悲鳴をあげる。 (女でも、 (でも、種の保存という動物の本能でいえば、異性を求めるのは自然の摂理で) (オレは、あいつに、) 刻々と近づく期限。 皆が当然のように手にしていく普通の幸せ。 望むかどうかは訊いたことなどなかったけれど、でも。 彼の道を、無限の可能性を、閉ざしてはいけない。 自分という存在が、遮ってはいけない。 (何も、残してやれない) 気づいた自分の負けだった。 あるいはそれはていの良い言い訳でしかなかったのかもしれない。 逃げ出したのだ。 書類にサインして家族となり子を生み育て支え合い、苦楽を共にする。 当たり前の未来を与えられない自分に、絶望する前に。 現実に傷つけられて、こなごなに、壊れてしまう前に。 だってアネキのがいーじゃねーか。 わずかに尖らせた口先からぽつりと小さくそう零した獄寺にしかし雲雀は何も言わなかった。 ただくちびるを塞ごうとした彼ごと、獄寺は首を振って拒絶した。 そんなことにこだわる自分こそ、女々しくて嫌だった。 例えば、「綺麗だ」と囁かれて。 額を、鼻筋を、頬を、渇いた指先が滑っていく、――何度も確かめるように。 最初はぎこちなかった、その感触をまだはっきりと覚えている。 心地良かった。 冷えた指に身を委ねて、互いの熱を混ぜて溶け合わす。 (好きだった、んだろうな) でも、彼の傍ではいつも必ずどこか怯えていた。 自分の価値を決めるもの。 生きがい。 それは確かだったはずなのに。 彼を前にした途端、陽炎のようにゆらめいて。 (だって自分は、女じゃない) 綱吉の右腕として、ボンゴレを守り支えるのに女の身では辛い。 認められ、役立てるのは力ある男。 何の疑問も後ろめたさも持たなかったはずなのに。 これまで滑らかに回っていた歯車が、雲雀という小石で軋み動きを止める。 大いなる矛盾。 必要とされたかった、それだけのことなのに。 「オレの政略結婚相手候補」 いつのことだったろうか。 やるせないように笑って、いくつもの写真を放った山本。 散らばる美しい女の顔、顔、顔。 はっとした。 忘れていた。 そうだ、雲雀とずっと寄り添って誰からも祝福されるのは、自分ではなかった。 (そんな、大々的な幸せを願ったわけではないけれど) (もう、いい) 虚しさと悔しさが心を覆って、神経をすりへらしていく。 かさついてひび割れる感情。 無理だと思った。 (なあどうして、 音の無い問いに、返ってくる答えは空白しかなくて。 考えても考えても、淋しくなるばかりで。 募る不安は限界を越える。 二人でいても溺れる孤独にいっそ離れてしまえと、自分から手をはなした。 「――良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも……」 荘厳だが晴れやかな賛美歌の合唱が流れ、牧師が聖書を朗々と読み上げると、いよいよ式も佳境に入る。 夫婦になるための誓約が獄寺の耳に届く。 毎度お決まりの言葉だが、何度聞いても胸が詰まる思いになるのは自分だけだろうか。 わずかに動いた自分の指を、握り締めた。 光がステンドグラスを抜けて白い壁を照らす。 「病めるときも健やかなるときも、死がふたりを別つまで、愛し続けることをここに誓います」 誓います、と震える声でしかしはっきりと告げる二人。 彼らに、嫉妬めいた醜い感情を覚えていることなど、ここにいる誰も知らないだろう。 牧師が穏やかに微笑んで言う――「誓いのキスを」。 わっと場内が沸き、一斉にフラッシュがたかれる。 逃れるように瞼を伏せた。 もういいだろう。 獄寺は自嘲を翡翠の眼差しに浮かべて、席から離れた。 最後に見えたのは、初々しい夫婦の眩しいほどの笑顔だった。 煙草を探ろうと曲げた腕を、不意に掴まれた。 職業柄、身に覚えがありすぎて困る。 剣呑な面持ちで身構えた瞬間。 「見つけた」 鼓膜を震わせるその声。 未だ記憶は鮮明なまま。 離れていても少しも変わらない彼が、そこに立っていた。 黒ずくめのその姿が白昼夢でないことは、手の温度で証明されていた。 何を、するのだ、と。 呆然として言葉が出てこない。 式は、ボンゴレファミリーとは無関係のもので。 無論、雲雀がわざわざこのような場に姿を現すはずもなく。 偶然というには、指先にこもった力が強すぎた。 掴まれたところに痛みすら覚えて柳眉を顰める。 「痛、……」 驚愕にはねあがる心臓が痛い。 まさか。 まさか、追いかけてきたのだろうか。 自分を? いつ消えたかも、興味を示さなかったであろう、雲雀が? 嘘だろう。 けれども、他にこの場にいる理由など――。 喉の奥で息が詰まる。 落ち着かなければならない。 じゃないと、自分に都合の良いことしか考えられない。 「――君は、」 唐突に目の前の雲雀は言った。 珍しく焦燥が滲んでいる気がする。 ほんのわずかに余裕をなくした、もどかしげな吐息。 いや、それは自分にこそ言えることで、彼は冷然としているのかも知れない。 真っ黒の目に、動揺を露にした自分が映し出される。 「どんな言葉で、なにに誓えば満足する?」 聴こえないふりなどできないように、意味を違えることなど許さないように、はっきりと紡がれた。 掴まれた腕は放されて、けれど指先で引き止められる。 銀の指輪の上から一撫でされた小指ではなく、薬指をつなぐ。 絡んで、ほどけないようしっかりと結ばれた指。 その約束の仕草が何を意味するのか。 爪先がわなないた。 「望みを言ってごらん」 「ひば……」 「なににでも誓ってみせよう」 揺るぎない目。 声。 今彼の全てが自分に向けられていた。 嘘だろう。 頑是無い子供のようにたどたどしく首を振った。 眩暈がする。 獄寺の為に、――否、誰の為にだって、こんなことをする奴ではなかった。 彼を変えたのは自分だと思っても、いいのだろうか。 そのくらい、自惚れても。 離すものか、と。 言葉よりも雄弁に、その指が物語る。 求められて、たちこめていた不安や怯えという暗雲を、痺れるような愉悦が風となり晴らしていく。 埋もれていた、ただ純粋な想いがそこに残っていた。 「雲雀…」 恐る恐る握り返した指を、引き上げられて根元に口づけを落とされる。 陶酔のあまりくらむ目を、こじあけて。 そうだ。 覚悟を、決めなければならない。 彼に答えを返すために。 (こんなにも、弱いオレを、それでも欲してくれるのならば) 扉の向こうでブーケが青空に舞った。 二人のためにも祝福の鐘が鳴り響く。
CHurch
|